19世紀末、パリのモンマルトルの「黒猫」に産声を上げたキャバレーは、日本での意味と違って、「文学寄席」とでも訳すべきもので、気の利いた語りとシャンソンに託して、政治や社会の時事的なトピックを笑いに包んで風刺したエスプリの芸でした。それはアリスティード・ブリュアンやイヴェット・ギルベールといった歌手の出現によって名声を博し、「コンフェランシエ」という司会役がリードして、話芸とシャンソンと寸劇でつなぐ形式として定着しました。
ドイツでも1898年にイヴェット・ギルベールが客演した頃には、遊民とボヘミアン文士の都市文化を基盤として、「文学ヴァライエティ」劇場設立の機運が高まり、エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンという人が、ドイツ語で「カバレット」と称した店をベルリンに開きました。しかし帝政時代のドイツではパリのエスプリの移し替えはまだ時期尚早で、店は長続きしませんでした。それでも蒔いた種は無駄ではなく、ベルリンの「響きと煙」やミュンヒェンの「十一人の死刑執行人」などに受け継がれ、やがて20年代の全盛期を迎えることになります。
第一次世界大戦の敗戦で抑圧的な帝国が崩壊し、ドイツは共和国となります。社会は混乱していましたが、新時代への願望と自由な世界への期待が世相に輝きを与えました。そうした雰囲気の中でドイツのカバレットは黄金時代を迎え、ナチによって息の根を止められるまで、世界の都市大衆文化の先端を行く街となったベルリンを中心に、モダニズムの息吹を歌い上げたのです。
まず1919年末、前述の「響きと煙」が再開されました。それを機として、蓄積されていた解放のエネルギーが堰を切ったように流れ出し、時代感覚に対応した言語表現を斬新な音調に乗せた多彩なカバレット・シャンソンを開花させました。ヴァルター・メーリングのようなラジカルなダダイストも加わり、最初のオリジナルなダダのざれ歌「ベルリン・同時性」によって世界都市ベルリンの鼓動を伝えました。
そうした自由の空気の中で、新時代のカバレット・シャンソンを担ったのは、ドイツ独特の「演歌」や「大道歌」の伝統を現代に活性化した民衆歌人たちでした。彼らはクルト・トゥホルスキーやクラブント、あるいはエーリヒ・ミューザームなどの作った歌詞に、フリードリヒ・ホレンダーやハンス・アイスラーなどが作曲したシャンソンを、シンプルな即興性を生かしたリズムで歌いました。中にはエルンスト・ブッシュのように時事的で攻撃的なシャンソンで名を成した「赤いカバレティスト」もいました。
しかし当時のドイツのユニークなシャンソン歌手は圧倒的に女性でした。それは新時代を代表する歌の作家が、特定の女性を目当てに、その女性にぴったりのシャンソンを作ったからです。ローザ・ヴァレッティ、グシー・ホルをはじめとする彼女たちは、女性解放のシンボルでもある断髪でカバレットに出ました。そうした歌姫の代表のクレール・ヴァルドフは、赤い髪の毛を振り乱して「ベルリン中を私の足に狂わせた」のでした。またブランディーネ・エービンガーは、ベルリン下町情緒たっぷりの「イエーレ(おてんば娘)」の歌で人気を博しました。
こうして大衆化されたシャンソンは、さまざまな要素を取り込んで、より一層のアクチュアルな感性の「ソング」に発展しました。それはブレヒトの『三文オペラ』の劇中ソング「ドスのメッキーズ」の歌などで最高の表現に達し、ヒット曲にまでなって、今日も歌いつがれています。
(木月京子KABARETTを唄う・プログラムより) |
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| カバレット 響きと煙 |
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| フリードリヒ ホレンダー |
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| クレール・ヴァルドフ |
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| グシー・ホル |
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| クラブント |
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| カバレットの寸劇 |
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